
教研集会の時の話しだが、多くの先生と個人的に飲んだ。朝まで語り合った事もある。そこで感じたのは僕も傲慢になったなァという 事。こう言うものは自分が気づかないから性質が悪い。活動をしているので、常に周りに気を配っている(その点で既に慢心なのだが)と いう気になってしまっていたのだろう。また、組織でないにしても居場所をやっていると、個人の立場だけで言えなくなる場合もある。 (と言うのを言い訳にしていたんだな)良かれと思って,独断で動いた事もある。みんな,仕方ないと自分で、反省しなかった。そして、 確かに立場が違うと,捨てなくては行けない、というか捨てた方が楽になる気持ちと言う物もある。そう言う点を一年ぶりに会った先生 に指摘された。言われた時は気分がとても悪くはあった。が、正しいとも思った。 決して富山の周りの友人が、諫言しない訳ではない。 むしろ言ってくれる人はいる。でも、そう言う友人すら気づかない微妙な慢心と言うものがあるのだろう。知らず知らずに変化している と言うたぐいの。無論,周りにいる若い人は気づいているとは思う。しかし、立場的に言いづらいものもあったろう。つくづく、身を引 き締めると言うのは難しいなと感じる。強くなりつつも,苦しかった時を片時も忘れない気持ちとでも言うのか。だからこそ、遠くに居 て,たまに出会う。そして会ったとたん数年間まえの感性で僕を見て,言うてくれる人は大切だなと感じる。それは「戦いだ」と友人は 言った。僕も自身に対しては同感だ。あり難いと思う。この場で言うのもなんだけれど。 ただ、僕はもう外と戦うと言うのはしたくない。しばらくはしない。誰もが話せば分かる。とも思っていない。だけれど、僕としては まだまだいろんな世界を知りたい。考えも聞きたい。戦うのは寧ろ楽なんだ。しかし自分の世界が狭いのに,これが正しいと言いきれる ものなのだろうか。少しは相手の,考えの違う人々の考えも知らなければ行けないのではないだろうか。戦うとしてもだ。とは言っても ある程度の年齢になれば立場を鮮明にしなくてはならなくもなるだろう。逃げも打てなくなる。だけど僕は若い。様々な派閥、立場,利 益。そう言う違和感を感じつつも、反撃せず話しを聞く。確かに卑怯者だが、そう言う事もしなければ駄目なんじゃないかと強く思って いる。ここだけは譲れない一線だ。2/14日
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更新も中々,週に一度とはいかない。いろいろ仕事があるから・…。と言うのも言い訳か。それはともかく、教研集会や講演に関東に。大学で話すのと、交流に山陰、関西に行ってきた。2週間くらいだろうか。毎日,宴会をしていて、酒はしばらく断たねばならない。 しかし感じるのは地域差と言う事。気質が関東と関西では全く違う。また都会と地方都市と言うのでも事情が違う。この点は大きいかと思う。日本でも事情が全く違うと言うことだ。インターネットなどをしていると、ややもすると似た気質のものが集まる。だから話に共通点があるような気がしてついつい、何処も似たり寄ったりというきがする。だが実際に目で見る事でかなり、実情が自分の住む所と違うなと感じる。同じ「大変です」と言う事でも、例えば不登校にしてもあるいは「居場所を作るのが大変」なのか、あるいは「個人が各個で閉じこもって苦しむ」と言うのでは大きな隔たりがあるような気がする。だが、大変ですと書けば、自分の実情に併せて考えてしまう事はありはしないだろうか?もちろん、僕が浅はかで、実地に見なきゃ分からない人間だからかもしれないけれど。 ネットは便利だし、長所は沢山ある。だけど、その長所を使いすぎて最近の僕は実地に遊説する事が少なくなった気がする。気をつけなきゃならないなァ。 2/12日 |
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最近つくづく思う。不登校で何で悩まなきゃならないのか?何もないと思う。無論、いろんな事で自分を責めたくなる気持ちはわかるつもり。だけど堂々としても良いじゃないか。そう言いきりたい。なんせ、僕が見る限り不登校をしてクズと言う人にはあった事は無い。みんな良い所がある。(もちろん世間一般の人々も)自信を持っていい。 それに法律に触れることをしているわけでもない。親だって、好きで育ててきたわけだし,生んだ責任もある。大人でさえ割りきってぶらぶら遊んでいる人や大学生も多い。何も10代で自分を卑下することはない。自分のやりたいこと,夢。そう言うものを探したり,目指す時間があってもよいと思う。ただ、そう簡単に割りきれれば楽だとも言える。また割り切り難いのもよく分かる。 もちろん、復学したい人はその時、同級生にからかわれるかも。と言うのは問題かもしれない。これは大きい問題かもしれない。学校は選択の自由が少なく仲間を自由に選べないから。そして、立場上同級生は,ある意味では対等(でない時もあるが)だ。しかし、行かない事で精神的に自ら劣等感を抱くと、友人のほんの冗談でも聞く側には心苦しい。学校が好きでも。からかわれると思うと行けない、と考える人の立場を思うとどうしたら良いだろう?まだ答えが出ていない。 あるとしたら,やはり自分の考えなり,生き方なりを方向転換としなければ,防ぎ様がないきがする。「休んで何が悪い」と自信を持って言ったり,力で制圧するように(良くないが)性格を変えない限り難しい気がする。それとも、元のままの状態を苦労して耐えるか。 だがそれ以外に選択肢は沢山ある。生きたいとこに行けぬ被害者にはなるが,同じ学校でも、学校を変えるとか,進路を変えるとかがあるだろう。 だけど本当はそれでもない。子どもが一人抱えて精神的に悩む以前に。実は本当の問題は、社会を形作る大人の意識が変われば良いのだ。そうすれば、学校へ行っているほとんどの子が,普通にただ学校を休む子を、一時休んだだけとか,進路の一つへ進んだ程度に見る価値観が生まれるかもしれない。が゛、それは更に難しいだろう。と言うのは僕26年生きただけの自分さえ,変えにくい。何十年も生きてプライドを持つ人を変えようというのは、不可能に近い。まして他人なら。 話は飛ぶ。しかしつまるところは、不登校と言う問題ではなくなる。生き方の問題になるのではないだろうか。他人や家族の目を気にして苦しむのが問題なら。まず自分を変えなければ行けない。誰でも自分をしっかり見つめると言う事。自分に自信を持ちつづける事。それを押し通す事。そいつが出来れば,学校も社会も会社もそんな事に捕らわれて苦しんだり,悩む事は少なくなると思う。むしろ世の中が楽しくなるかもしれない。まぁこいつが案外に難しい。難しくとも僕はそうなりたいものだ。僕自身もまだまだ発展途上だ。 1/17日 |
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久しぶりの更新で申し訳無いです。3ヶ月ぶりくらいでしょうか。その間,色々問題や、やらなければ行けない事が山積していました。ほんますいません。と言ってもここは誰も見てないか・… 最近,思うのは馬鹿じゃなければ富山では動けないだろうなと言うこと。つまり、不登校とかに限らず支援の無い市民運動は金が貰えるわけで無し,名誉があるわけでも無い。労力もかかり、否定される事も多い。社会的価値観では得るものが無いのだ。むしろリスクの方が大きい。こういう事を喜んでやってくれている僕の周りの連中は,ホンマに馬鹿だなと思う。ひょっとしたらマゾ?なんて思ったりする。だってもし、教職につくなら,安定して金が手に入るし,訳のわからない活動をしていると白眼視もされない。あるいは、金を取って商売にすれば不登校と言えど儲かるかもしれない。だけど僕の周りは誰もそれをしない。 だけどどうだろう?そう言う馬鹿でなければ権威に逆らえないだろう。また新しい提案を反対を押しきって出きるだろうか?逆境でも立ち向かえないだろう。そう考えると世渡り下手な馬鹿こそ、富山などの辺境の地方には必要な人材なんだとつくづく思う。だけどそう言う馬鹿は少ない。出会えないだけかもしれないけれど。富山も田舎とは言え人口が30万人もいるのだが,中々人あるところに,人ありとは言えないようだ。来年は名利や権威にとらわれない馬鹿な連中とより出会いたいと思う。 12/20日 |
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維新の時代は優れた人間が沢山いたようだ。坂本竜馬でも西郷隆盛でも河合継之助でも。現代でも企業のトップや政治家が尊敬する人に名を挙げている。確かに、当時誰もが徳川の世が永遠と思っていた。それを10年そこそこで変えたのだから凄い事ではある。若く身分も低いのに。革命を成し遂げた人物達も何万人もいたわけではない。ほんの数百人くらいがが核として動いていたようなものだろう。人も他の国の革命に比べて死んでいない。 現代失礼な話だが、日本に維新や明治期に匹敵するような経営者や政治家はまず絶滅していない。でも僕は日本でも若い人に,僕より若い人にそれに匹敵する才能を持つ人を知らないわけでもないし,沢山いると思う。しかし、それら若者が活躍しているかといえばまず話を聞かない。才能をすりつぶされている方が多い。 だったら僕らはひ弱なのだろうか。逆に維新の英雄は特別な人物だったろうか。考察して見ると確かに,維新の英雄は人並みはずれた才能はあったろう。時代も今とは違う。だけど家をすり潰してまで援助してくれた素封家や上司がいたからこそと思う。歴史を学べば気づく。もちろん、維新の英雄も活動当時は若造だった。実績があった人物ばかりではない。むしろ時代的には問題児だったと言う者も多い。にもかかわらず問題児の人間性に賭けて金や支援を惜しまない人物がいたからこその明治維新だろうと僕は思う。 顧みて,現代はどうだろう。自分の子なら金を惜しまない人でも、他人となると一顧だにしない。また、自分の子にさえ、自分の意に染まねば支援しない人は多い。都合の良いのは即戦力にならないからと切捨てさえする。 大人には全部が全部,身をすり潰せというのではないのです。ゆとりがあるなら,ほんの少しでも。また立場があり位,人身を極めて立派な事をいうならば地域や若者に言うほどは還元しても良いのではないか。そう僕は思う。また、何も出来ないなら身のほどを知って若者に過剰な期待や責任は押し付けないで欲しい。せめて。大人の心一つで若者の中から維新の志士を超えるような人材がゴロゴロ輩出するだろう。優秀な人材は現実に沢山いるのだから。それを見出す大人の目が昔の大人達より劣っているだけではないだろうか。 今の若者がキレるとか,ひ弱いと言う前に大人がすることをしてからいって欲しいと僕は思う。上が腐っていて下にばかり求めるのは暴君以外の何物でもないような気がするのだが。どうだろうか。もちろん,僕も言うだけではなく行動や出来る範囲の援助はしたいとは思っている。 9/17日 |
感性について考える。僕はもう中学生の年齢を10年軽くこしている。もちろん年は取ってもまだ何処か若いままの10代 |
人間どう考えても落ち込む時は落ち込む。と言うことを実感している。 |
自分で言うのもなんだけど、20年くらいしか生きてなくても考えが
こびり付くんだなと実感した。と言うのは今まで大抵、一人でまず
動いてきた。不登校関係のイベントでも。当所は誰も頼りにならな
かったから。
そのせいか、今,衆議をするという知恵と言うか、考えが無くなって
しまっている自分を発見した。一発花火みたいな適当なイベントや
小さな集まりは独力で出きるけれど,大きなことは衆知を結集しなきゃ
出来ない。でも,今までは一人でなんとか成功してきていた。
だがこれからは違う。大きな動きをして行かなきゃならない。僕は僕
の愚かさを知った気がする。今後は仲間と相談しながら動いて行きた
い。
みんなには当たり前の事なんだろうけどね・…。
7/27日
最近感じるのは人間というか僕の場合だが、内面だけど絶対に信じているものでも揺らぐ事が
あるのだなと感じている。時に信じているものの反対を行う時がある。それは僕自身の否定にも
繋がる事。自分自身でも理解できない行動。でも行ってしまう。もちろん酒も何も飲んでなくても。
はっきり言って恐い。自分でも制御できない行動だ。人はますます以外に思い信じてはくれなく
なるだろう。それは更に傷口に塩を塗られるようで痛い。
だけどそう言う自分がいると言うことや、馬鹿な行動をしてしまう大人にもお陰で少しは寛容にな
れたかも。また、危険な自分を知る事で、次のリスクを減らす事が出きる。まんざら悪い事でもない。
というか、次に同じ失敗を繰り返さないためにも若いうちの失敗で良かった。大人や地位があってか
らではなら崩壊ものだから。僕は幸せだ。3/30
実は、出向のような状況になったり,ゴタゴタが数ヶ月続いていたりと実は僕の
プライベートはかなり、苦しい。苦しいけれど、しかし殆どもう解決する。後は、九
年来の腐れ縁を一件何とかするだけだ…。それも、なんとなく目処がつきかけて
いる。本当に長かった。僕にとって,この四ヶ月は12年前と変わらないほど苦しか
った。でも、笑顔で人と会わなきゃならなかったという,接客業的な事もあって因果
なものだと感じていた。また、(いろいろな意味での)仕事が一番手を抜けない時期
で自分の内面をおろそかにしていたのもとんでもない事だった…。
そのおかげで,突然,怒ったりとか大声を出したりして,友達のみなさんには迷惑
を掛けたことと思います。大変,申し訳の無い事をしてしまいました。でもかなりの方
が友達として残っていただいたのでありがたいです。これからもよろしく!!
後一つ、なんとかしましょう。でも、仕事も大詰めでピンチであり,チャンスというとん
でもなく複雑な状況だ・・・・。後しばらくこの状況の僕と付き合ってくださいな。
3/4
僕は多くの人に助けられている。何故かまわりに人が集まる。僕の取り柄と言えばそれくらいしかない。 |
全教で山口に行った。確かに先生たちにとっては有意義なんだろうとは思う。 |
日教組の全国教研へ行ってきた。中々、面白い話しや人とのつながりも出来た。 ただ、恐いと感じたのは、よい事をしているつもりで先生の一部が体験を発表し ていた事だ。とても僕ならば行きたくないと感じるほどのヒドイ発表だった。し かし相手は自身満々。 かえりみて、僕はじゃあ本当に、不登校という気持ちがわかるのか?憶えている かと言うと疑問だし、自信が無い。更に教研のような多くの先生が発表する場では 考えが何時の間にやら、あらぬ方向にすりかえられてしまっているような気がする。 子どもたちのため、のつもりが自分たちの権利のためのだしの子というか。 学校と言う集団が一つの考えに固まると言うのがなんとなく感じられるような集まり だった。話しが狭い範囲で似通っているし.そのせいか、一時間もまともに話しを聞か ず外出するなど、僕は多動の子のようになってしまった。そうしなきゃ自分の考えが狂 いそうだった。多動の彼等もきっとそうなのかな? 自分をたもちつつ相手の考えも聞く。また良いところを受け入れ、改めると言うの は中々、至難だなと感じた。 もちろん、先生と言う給料分以上に働いていると感じた先生は多い.(ただ方向性が 間違っているから二倍害毒なのだが)だけどそれが良い方向なら良いのだがもう少し、 先生も働くのをやめるべきだ。忙しいなら。真面目に働くのは、必ずしもいい事ではな いのだから。僕の幸せな生活の一つも見習って欲しい.傲慢だけど。 頭がまとまらないけれど.明日の今ごろは山口への途上。また生きて帰ってきたならば 書きます.ああ、全教の教研集会、せめて、日教組よりも柔らかい事を願いたいのだが。 たぶん、そうはならないだろうなぁー。 もちろん、教研集会は、悪いだけではなく、真剣に変えようという意気込みもあったので それが一番嬉しい事だった。 1/26日 |
人を傷つけるということを最近考える。人を傷つけない人はいない。 お互い様だ。どうせ傷をあたえるならば,嫌な奴に当たりたいとは 願う。 ただ、僕の場合,嫌いな人よりも愛する人を一番傷つける。分か ってくれるだろうと言う甘えがあるのかもしれないし、許してくれる という驕りがあるのかもしれない。また、相手が許してくれるものだ から、当然のようになってしまう。だからこそ相手は耐えられず愛は 憎になるのかも知れない。突然言われて、裏切りだとか心外だと思う のは相手を知っているつもりで、分かってないからなんだとも今は思 える。 身内を大切にしたいと今は願っている。 1/15日 一仕事終わった気がする.酒ばかりのんでいる。そろそろ動き出さなきゃ行けない. だけど今年は不登校以外の生き方もして見たいものだ.何時も振り返れば不登校ばか りだった気がするから。もっとも人からはいつも遊んでいる風に見えるらしい。けれ ど僕は,傍目はともかく大抵真剣に真面目に生きてきた。だから疲れた。今年は義理 人情とか下らない付き合いは切り捨てて行こうと思う。非情なやり方に見えるかもし れないけれど。僕の場合、腐れ縁と付き合うと命懸け,信念を捨てなきゃ行けないほ どの覚悟と行動になるから.それがしんどいし馬鹿は馬鹿しい.昔は親友だとしても, 今は互いに考えもいきかたも、ちがっているから。他人からどう見られても、内実は 気楽に楽しく少しふざけて生きていきたいなと思いはじめている。そうしないと何事 もつづかないから。 2000/1/10 今,世の中は2000年と言う事で浮かれている人が多い。それはそれで 良いんだけれど。たた゛西洋の価値観と言うだけで,東洋の暦は違う。 東洋では仏暦でも皇紀でも全然,ミレにアムではない。(僕は右翼でも 仏教徒でもないが)当然、お祭りではない。といいっつも僕は楽しむだ ろうけれど。 不登校と言うのも、同じ事かもしれない。深刻に落ち込む人が今まで 今も多いからと言って,不登校が暗いと言うのはナンセンスだ.もちろん まともな人生が送れないと言うのも,一つの価値観に従ったうえの話しで しかない.もし、仮に世の中の流れが真実、不登校に 否定的であったとしても。だったら,自分の中に皇紀や仏暦を持てばいい。 そしてそう言う人のところへ行けば,話は合うだろう.また生きて行けると 思う。そんなに悩む事じゃない。 仮に右から左の価値観に飛べないとしても自分の都合の良いように、楽し めば良い。 色んな価値観の良いトコだけを取って行けば良い.そう思う。 だから僕は,僕の精神に悪いクリスマスと言う行事はやらないのだ。 12/21日 歴史は繰り返すと言うけれど,人生も繰り返すものらしい。僕の場合最近 やっと暇になって人生を振り返ると(短いけれど)九年おきに似たような 事件や出来事が起きているのに気づく。まだ、解決していないからなのだ ろうか。問題が。今も、結構シビアな問題を抱えている。もちろん解決は やがてするだろうけれど。 でも、もしこのままならば後、二年で殺傷沙汰になったり、恋愛問題でこじ れるのだろうか。まぁ、それだけは卒業しているだろうと思うのだが… 12/14日 一年が過ぎるのが本当に早い。僕のこの一年は充実していたと思う。しかし、忙しくなり 記憶力は悪くなった。そこで気づいたのは,僕が子どもだった頃のこと。大人はよく約束を 破った。僕が指折り数えるほど楽しみにしている約束を。でも、大人にとってそれは指折り 楽しいわけじゃなく,日々に忙殺されたり,忘れたりして、破るつもりはなくても破ってし まう。のではないだろうかという事. と言うのは僕自身,手帳が嫌いなせいか,多くの約束を忘れてしまっている。日に何個も 約束をしていたり…。昔なら頭の中にあったのに忘れている。 だからと言って,約束は破 っちゃいけない。だから僕は僕と一緒に行きたければ、くどいほど僕に言えと言っている。そ うすれば相手の熱意がわかるし、僕も忘れないから。それだったら,互いに「一度言った」とか 「聞いてない」で不信感を増す事もないのではないかと感じている.そんな今日この頃だ. 12/9日 僕の文は僕の価値観で書いたこと。うそ,偽りはありません。 記憶の間違いはあっても。また立場の,世代の違いによる違和 感もあるでしょうし、必然でしょう。だけど当然だけど読む人 の受け取り方までは僕は責任を持てません。 僕の文になるほどと思うこともあるだろうし、このヤローと 思う人もいるでしょう。これは違うという人もいるでしょう。 どう受け取られても構いませんが、所詮,文章はその時の思い 感情に左右されます。そんな時は叶うならば,一々人と出会う、 そして知り合うという事が大切だと思います。つまるところは。 もっとも、僕は何故か週4日休みでも時間が無い。うーん,これ 以上忙しくなるのもちょっと・・・・考えものだけど。 富士でも見て生き抜きしてきます。帰ると仕事が山積なんだろー なぁ。 11/3日
最近十年くらい前に出た不登校の本を読んだ。結構,時代を反映して重苦しい内容だった。その本の人達はもう 三十代や二十代だろう。当時は画期的な本だったらしい。今,読むと心苦しい。 省みて現在は,不登校がうなぎ上りに増加する時代だ。また、不登校だからと言っておおっぴらに後ろ指指され たりすることも減っている。いろんな生き方が出来易くなった時代だ。 そうなったのも彼らが突破口を開いたからなんだろうなぁーと、遅れて生まれてきた僕は感じる。そのお陰で 僕は外にもでれるし、人とも平気で語れるし、仕事も一応している。 だって、昔あの施設や病院送りにされたり、ひた隠しに親にその存在を隠された30代の人はかなり未だに閉じこ もっている人が多いのだから。ほんの僅か数年生まれが違うだけで,なんとなくだが不登校を経験した人でも傾向が 違うと僕は感じるのだ。遅く生まれてきた事に感謝した一時だった。とは言えまだ、不登校の問題は撲滅されていな い。むしろ一部は深刻になっている。だからこそ僕は拘っている。 9/2日 人間関係を作るのはまだ簡単だと思う。ただ、挑戦すれば良い。上向きの出来事だからやりやすい。僕も、 もうさほど人間関係を作るのでは悩まなくなった。人と出会い付き合うのは簡単な事だと思う。自然な事だ から。 ただ引き際が難しいなと感じる。人でも仕事でも関係を終わりにしたい時がある。もちろん学校もだけれど。 何が難しいと言っても,関係を終わらせるだけならば、非情に,恥知らずになりきれば良い。大抵、それでお 仕舞いだ。だけどこじらせたり,いろいろしがらみがあったりして。人情としても次につなげたい時はそうは いかない。 また自分自身が一方的に正しいと言う関係は滅多にないのだから、引け目を感じたりもする。だから正しい 対処を感情的になって取りにくいなと僕は思う。もし、この引き際や、しくじったりした時の後始末がうまく 出来れば,殆ど人生の八割は幸せに生きていけるのではないだろうかと、感じたりする。 8/20日 僕は弱点を持っている。だけど目では見えない。怠けている風にしか見 えない。それは疲れだ。 疲れが取れない。風邪も何ヶ月も前から治らない。うーん年かも知れない。 僕は未だに分からないのだが,多くの僕よりも年上の人は「疲れなぞ若いう ちは一日寝れば治る」という。僕は違う。何日も取れない。本当に苦しい。 例え,僕の好きな宴会だって一日,開けても苦しい。好きな事でさえ疲れてい るから、仕事となると苦痛以外の何物でもない。だから満足に,働けない。 手が無いとか足が無いというのは分かり易いものだ。目で見えるし,実際 理解できる。だけど僕のは隠せる。動作がのろくなるだけだ。怠けていると しか見えない。 時々,僕の友人はみんなタフなので羨ましくなる。徹夜で連日,マージャンを やったり、その後仕事を二十時間くらいやる人間もいる。それでいて数時間寝る と元気だ。僕は彼らには遊びでさえやる気がないと思われる。 性格に個性があるように体にも。個性があるということを気づいて欲しいものだ。 8/13日 『ありのままの自分でいい』そう言う言葉を最近良く聞く。僕もこの言葉はすばらしいと思う。 本来の自分を全て認めてくれているようだから。 だけど僕の場合に限って,ありのままの自分を出すわけにはいかない。何故なら、深く自分を 見つめたときにドロドロした自分がいるのが分かった。人に害も及ぼす。実際、そうだったし。 本当に「ありのまま」と言っていい人は傷ついている人にだけいいのではないだろうかと思ったりする。 あるいは僕だけなのだろうか?あまりに汚い内面も兼ね合わせて持っているのは。もちろん自分 には良い面もたくさんあるのだけれど。僕の全てが良いとまではまだ思えない。あるいはありの ままとは全てをひっくるめた自分や人を受け入れると言う事を言うのだろうか。としたら、僕には まだまだ険しい道だろう。 7/17日 99/7/9 不登校と言うのはなんだろう。学校に行かないだけ。 しかし、行かなくて何か困る事があるのだろうか? 無いような気がする。付属として学歴が無いとか になるのだろうけれど、それはその人間の持つ実力とは 関係ない気がする。 差別される。これはある。だけど差別は付き物だろう。 不登校だからというデメリットもあるが、不登校だから 注目され作家になった人もいる。講演している人も。これは 不登校だけじゃない。先生だって金持ちだって、偏見で見ら れることはあるのだから。要は、子どもはともかく青年なら 考え次第でプラスに持って行ける。子どもは可哀想としか言 えないけれど。 不登校は現象としての問題や,個々の問題もあるだろうけ れど最近ではむしろ、個人の問題。親との関係という点で考 えたほうが良いような気がする。学校や社会を変えて行くのは 最後の段階と言うような気がする。もっとも一番魅力的な手段 に思えてしまうとしても。
ら出来ないと逃げないで欲しいと思う。人前で語る度胸があるのだから。言った事を実行出来る力もあると思 う。言うだけで何もしないのは逃げだと思う。言うだけなら、もう僕だって楽勝なのだし。語れる人達とはどう 一緒に行動し変えていけるかを一緒に考えまた一緒に動いていきたいと心から僕は思う。 もう、体験だけを語る時代ではないのではないだろうか。それは貴重な事だけれど十代の少年達に任せる事で はないだろうか。僕達が変えていかなければ何時まで経っても不登校の苦しみは世代を超えて共通する事にならな いか。シビアな言いかただとは思うけれども、僕はそう言う時代になってきていると思う。
無くなる。とでも言いたいなら何故、親が自ら子の落ち着ける場を社会に作ってやらないんだろうか。結局、学校の文句を言う前に僕は、 奇麗事だけ言う親たちに最近、嫌悪を感じる。学校は問題山積ではあるけれど何が教育かわからないような事をしてるけれど、それに対するアンチテーゼ を出せないなら、実行している学校を説得する事は出来ないから。