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本当はこれまで一途に『教育に関わりたい』 (教育と言う言葉は本質からずれてる気がして嫌いだけど。世間に通じる日本語で) そう思っていました。学歴や資格はなくとも。10年以上、諦めた事はありません。今はもうその夢も崩れましたが。でもそれは99%以上の大人が「おまえには出来ない」とか「それなら大学へ入れ」という現実的な対処や否定しか言わなかったからではありません。そんな事は言われずとも馬鹿じゃないから分かっています。 なのにこれまで夢を棄てず思いつづけたかと言えば、10代の頃大学へいかねば公教育に関われない、と言うのが気に食わなかった。本来、教育とは大学へ行くだけでもな く、一方的な知識の伝達だけでもない。相互に考え語り合う事で刺激しあうものだと僕は思っていたから。そしてその知識を実践し知恵にまで昇華するものだと思っていたから。 (今は僕の考え多少発展している。) 現状のように詰め込み、押し付けるだけが教育ではないと強く思っていた。ついでにそれを変えたくても学歴や資格だけ公教育に全く関われないと言うのは現代の悪しき身分制と思っていました。そんな教育関係に関わる権威や専門家といわれる人は大卒、年配者が多い。(今は必ずしもそうでない。もちろん尊敬すべき人も多いけど) もう墓場に入りそうな専門家や評論家が自分が出来もせず、現状にそぐわない事を僕らに言い続けるのが、当時我慢ならなかった。子どもが教育の主人公と言うなら尚更。彼らは肩書きがあり世間に影響力をもつ。しかも大金まで貰う。子どもの現状に合った事を言うならまだいいと思っていた。だけど「登校拒否は精紳の病気だ」と言ったり (無論精紳が病気でという理由もあるだろう。ただ実際には今、不登校児童が数十万人もいればそんな人ばかりとは言えない) 殆どの日本人がしている「甘え」と言ったり (銀行家や政治家。それら無能に近い指導者を選び、今の危機を育てたのは利権に甘えた大人なのに。) それは僕にとって耐えられない事だったから。だからこそ学歴という身分の垣根を越えて無位無冠でも、僕の経験を公教育に生かしたいと思っていた。それが駄目でもいつの日か民間のフリースクールにでも関わって外からアンチテーゼを示して、知識、学歴偏重の今の教育を変えていきたいと思っていた。専門家とは違った見解が出せると思って。 だから僕は、学歴 (もちろん公教育内部から変えようと言う人もいるし、それは良い事と僕は思う。) とってまで教育に関わって節を曲げたくなかった。それは僕の存在理由が薄れる気がして。10代の頃は特に教育現場に生の声を伝えたかったし。そう思いつづけて、一生安定しそうなおいしい定職を蹴ったりもしました。そうまでして、つい最近まで夢を棄てませんでした。 今、思い続けていたせいかどうか、僕に何個所かのフリースクールから働かないかと言う誘いが来たりしています。いい加減で酒好きな僕にでもです。僕の夢は現実になったのです。このまま働く事に決めれば、今までと違いやりたい事で生きていけます。思いも実践できます。でも僕はためらいました。せっかく宝くじが当たるよりも難しい幸運なの に。ついに「諾」と言えなかった。それはでも、今より貧乏になるのが嫌だからではありません。元々貧しい生活なのだから。 (詳しくは『幸せな生活』を出すから待って) 本当の所は考えが変わってしまったからです。 つまり金を取ってまで教育をやっていいのだろうか。そう僕は最近おもいだしたのです。無論、生きてく為には食わねばならない。また、金を貰っても立派な教育をしている人は五万といるだろう。高等な知識教育には実験や実証に金もかかる。それを否定するつもりはありません。でも僕の場合はそれらの人と立場が違う。今日、あるのは多くの人が利害損得を度外視して僕に付き合ってくれたからです。十代で親にも金を貰う事が出来なかった僕にとって、当時人が「金を出さねば僕の話を聞かない」とか「来るな」と言えば僕はほとんど活動の場や出会いの場が無かったでしょう。心有る人の援助が有ってこそ今日の僕があります。そんな僕が今思うのは、金を取る教育では、そもそも親の援助や理解がある子か、裕福な子しか来れなくなるかもしれない。それは昔の僕のような人間の切り捨てにならないだろうか。また得てして意志の弱い僕は子どもの意志ではなく、金を持つ親の意向を重視するだろう。金を出すのは働けない子ではなく、親なのだから。僕の場合、専門的な教養も技術も無い。教育一筋になるときっと利権に汲々として、食って生きるためだけに其の立場にしがみつくのではないかと思ったからだ。そうなると視野も狭くなるだけだし、自分自身人と付き合う前に、生きる力が無いと言えるのではないだろうか。ついでに僕は人付き合いに好き嫌いがある。金を貰ってしまえば嫌な者も引き受けざるをえなくなってしまう。子と嫌々付き合う、それは相手に失礼にならないだろうか。 そう考えると、僕が関われる教育は金が絡むと出来ない事になる。やるとすると自腹を切ってやる事になるだろう。今は僕が食うのも精一杯。となると無理なく、空いた時間に、教育に関わるしかない。でもそれが一番大切な事かもしれない。昔の、学校も先生もいない社会は仕事一本だけでなく、あまった余暇に親や地域が子を育ててきた。それでも今ほど育児に問題が無かったのだし。だから僕は近所の変なおやじとして子どもと遊ぶのが一番いい気がする。先生になるのではなく。僕自身、望むと望まざるとに関わらず、多くの高名な先生やカウンセラー、医者にもかかったし、施設にも送られた。だけど人間として損得を考えず付き合ってくれた人がいたから今の僕がいる。金だけを考える人には心を開けなかったのだし。ついでに子どもは学校へ行かず教えられなくても、高等な知識や技術を獲得できるのだ。僕自身や一部の拒否児仲間を見ていても、興味のある事は自分で掴み取ってきたのだから。また、それを極め専門的になると、とても今の高校くらいまでのレベルの先生は必要ないのだから。そし僕には今の状況で関わるには高等な技量は何一つ無い。 こんな僕の思いでは今までの夢を棄てるしかない。それに教育に関わるとするなら、このインターネットでも大きな影響を与える事が出来るだろう。利害さえ考えなければ。そうなると今までの教育とか、何とか言う前に、自分自身の問題が大きく立ちはだかってき た。だって十年間、恋したように教育を思い続け、情熱を賭けていた。それが崩壊してしまった。今までとやり方を全く変更しないといけない。だけど空洞の心は容易に埋まらない。僕自身、猛烈サラリーマンの定年後のように、教育で稼ぐ以外には自分が何をしたいか、何ができるか分からなくなっている。でもおやじたちと違うのは、まだ年金を貰える年ではなく、払わざるをえない年だ。なのに遊びはやったけど、手に腕も無く、知識も無い。資格も取ってはいない。しかし、夢は棄てても片手間にも今後も、教育のような世界に首を突っ込む余暇や資金力は欲しい。そこで僕はこれから教育以外、どんな才能が埋まっているか自身を発掘しないと行けない。楽に食っていく方法を。 (本当は不完全ながら実践しているけれど。自分一人しか楽できないから) 何かは見つかるだろう。いつになるかわかんないけど。 だからこれが一番言いたかったんだけど、僕は遊んでいる。また、ふざけたように書いているけど金持ちのおねぇさんに食わしてもらいたいなぁ。一番手っ取り早いし楽しい。やりたい事も思い切りできるから。そんな夢を持っている。金があれば不得手な、創造性のカケラも無い仕事に時間を費やさずに済むから。結構、不真面目なのか真面目なのか僕もわかんないけど、何かを見付けるまで、金持ちのおねぇさんを見付けるという僕の考えはしばらく変わりそうも無い。賭けるべき物が見つかる時まで。 戻る。 |